日本福音ルーテル教会から
一. 世界基督教統一神霊協会、いわゆる統一協会がキリスト教会の教えとは違うことは、それが基としている『原理講論』の考えをみれば明らかです。特にそこではキリストを救いの完成者として考えず、文鮮明が再臨のメシヤであるとしています。また『統一神学』は聖書やキリスト教の神学者たちの議論を引いたりしていますが、その教えは聖書以外のものを基本にして、それを都合のよいように、断片的に接ぎ合わせたもので、伝統的なキリスト教会の教えとは全く異なります。しかも協会の内部では『原理講論』が専ら基本で、『統一神学』などというのはキリスト教的な装いの手段ではないかとさえ思えます。アメリカでも日本でもキリスト教協議会に加入しようと努力した時がありますが、いずれも断られてしまいました。
二. もちろん信仰はそれぞれの人によって保たれるもので、他の人がとやかく言うべきでありません。しかし信仰はその人々の自由でも、それによって他の人々と共通の正しさを見ず、また自分たちの信仰のために会員を、そして他者を、あくどく利用するような行為が信仰によって生じるなら、その信仰自体が問題であります。
判断出来る立場に立たせるようにすることです。その努力は当該者を社会的な問題行為から解き放つというだけでなく、本人たちの人格的な自立を促すことにあります。それがないと、たとえ何かの理由で脱会したとしても、のちのちまでも本人がその時の影響を引きずって行くことになります。
六. 自分が自立的な判断が出来ないということには、それまで育って来た環境における問題や、周囲が気付かないでその人を追い込んでいたという状態があるかもしれません。その意味では家族や関わる人々の側での問題も検討、反省して新しい出発をはかることが必要です。
七. 仲間の親しい交わりや世界の問題を一貫して説明すること、また自分たちが世の改善のために力を尽くすことの出来る場が提供されること、など実際はそうでなくても、そこに入ろうとする人々には魅力的なものがあります。その会員になろうとする人は、それにひかれた真面目な努力家ででもあるのです。それだけに、そのような偽りの手段で、そうした人々を利用しようとする組織に対する正しい批判が求められます。
一九九三年七月一日
信仰と職制委員会